大人がゲームをしていると無駄だと思われる風潮が嫌い。
私もこう見えて社会人。余計な付き合いは避けているものの、避けられない場面というのはどうしてもでてくる。そんでまぁ、雑談とかするわけなんですけども、
みたいな話題を振るわけですが、仕事で付き合いのある人達のリアクションは
それよりこのあとキャバクラにでも行きませんか?
みたいな感じですよ。まぁ、キャバクラのくだりは勝手に私が付け足したんだけど。
それでしょんぼりした気分になりつつも私は昔の事を思い出していました。
そんな事を思いながら今に至る。
子供時代のゲーム
私が物心がついたときには手元にファミコンがありました。父が買ってくれたものです。
ソフトはマリオとF1とドラクエ。ゲームがわからない父なりに人気作を選んでくれたようです。当時の私はすごく小さかったのでドラクエ1の意味がわからず、マリオは難しすぎて、F1ばかりを延々とやっていた気がします。
私がやりまくっていたF1
テレビの中のものが私の手元にあるコントローラーで操作できるというのが、当時はめちゃくちゃ画期的で夢中になりました。
そして時間が経つごとにファミコンブームはどんどんヒートアップして世はまさにファミコンバブル。とにかくソフトを出せば売れる時代があったのです。
当時、私が一番ハマったソフトは「新人類」というソフト。
主人公は見た感じ、石器時代の人ですがパワーアップアイテムをとると長州力に変身します。
唐突に長州力ってでてきたから読み間違いだと思われた方もいらっしゃるでしょうが、あの、プロレスラーの長州力です。
新人類はこんなゲーム
なんというか、発想がぶっとんでいて
と胸を踊らす毎日を過ごしていたのであります。
それで新人類以降も続々とたくさんの名作が登場し、私はもうすっかりゲームの虜。
学校と休み時間に友達とゲームの話をしつつ、放課後はみんなと一緒にゲームをする。とても楽しかった。
私は小学校3年生から野球部に入ったのでゲームをやる時間は激減したのだが、友達とゲームをした思い出というのは未だ残っている。
思い出が今の私をつくった
そんなこんなで友達とゲームをやっていたのが今無駄かって聞かれたら絶対無駄ではないし、むしろその時のゲーム体験は私にとって大切なものだ。
大人になった今、大切なものが増えたり、やらなければならないことが増えたりしてゲームで遊ぶことの優先度が下がってしまう事はある意味しょうがないこと。
だけど、元々ゲームが嫌いではなく、昔ゲームが楽しめていた人が今、ゲームを楽しめない生活を送っているのなら、何かに追われて生きているのではなかろうか。
わかる、わかるよ!いろいろあるだろうさ。私みたいな割りと身軽な環境に身をおいていてもそれなりに責任というものはある。
適当なだけじゃいられない。夢見る少女じゃいられない。
わかるんだけど、責任というものに押しつぶされて純粋にエンターテイメントを楽しむことができないのならば、それはあまりに寂しいじゃないですか。
ゲームを熱く語るという事
私にとってゲームを熱く語るということは自分が純粋に好きなものを好きだという行為です。
そこに嘘偽りないし、恥ずかしい事でもないのだけど、「大人がゲームをするなんて馬鹿げてる」「他にやることがあるだろう」という謎の圧力は容赦なく私に降り掛かってきます。
しかし、そんな圧力に屈する事なくこれからもゲームを楽しんで行きたいと思う次第であります。